2009年10月27日 (火)

鳩山首相所信表明演説

鳩山内閣発足から40日。不安な点を上げればキリがないけれども、今日の所信表明演説は、民主党への国民の期待をしっかり受け止めていることが感じられて、とても良かったと思う。
(所信表明演説全文)http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009102600411

自民党の谷垣総裁は、鳩山首相の演説を「感傷的」と評していた。具体性に欠けるという論評がそこここで見られた。
けれども、所信表明演説というのは、具体的にあれはこうしますと言えばいいというものではないのではないか。
皆が賞賛したアメリカ大統領バラク・オバマの就任演説はどうだったか?

鳩山首相は政権運営にあたって、自らの基本的な考え方、思想、哲学を述べられた。それでいいと思う。
そして、その内容は国民の期待に沿ったものだったと思う。

残念だなぁと思ったのは、2点。
力を貸してくれと言うのは良かったけれど、そういうのであれば、そのへんは具体的にしなければならなかった。国民に負担してもらわなければならないことを 明らかにするべきだったと思うことと、バラク・オバマの「YES, WE CAN」のような象徴的なキャッチフレーズを挟み込めなかったこと。

谷垣自民党総裁は、鳩山首相の演説を「感傷的」と評したけれども、実際は、谷垣さん自身感じるものがあったのではないだろうか。そんなふうに見えた。
自民党がやってきたことを否定している部分も多分にあるし、立場上、ほめるわけにもいかないのだろうけれど、もっと素直な感想を言ってもいいのではないかと思う。そうした率直さが国民が持っている政治に対するイメージを変えていくのだと思う。

ついこの間まで、ほぼ60年間にわたって政権を運営していた自民党勢力が野党になっているわけだから、追求の仕方によっては、自民党は自らがこれまでやっ てきたことを否定しなければならなくなる局面になる。これは、率直に是々非々論を展開するいい機会なのではないかと思う。

長妻昭厚労相が日本年金機構の発足を決めたのは、自治労の働きかけがあったという報道が一部あるだけになおさら、残念だ。
発表では、就職内定が決まっている人たちに配慮したということのようだけれど、説明が十分でない。日本年金機構のような組織では、年金制度を立て直せない とご本人が言っていたではないか。それを断念するには、もっと納得のいく説明が必要だし、自治労の働きかけに配慮したというようなことであれば、特定の組 織のために政治を歪めたことになってしまうから、民主党が批判してきた自民党政治と同じということになって、国民の支持が得られない。

本格的論戦の始まる臨時国会には、これまでとは違った、国民目線の議論を望みたい。

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2008年10月17日 (金)

上杉隆『ジャーナリズム崩壊』を読む

上杉隆さんの『ジャーナリズム崩壊』を読んだ。

この本で最も感心し、共感を覚えたのは、朝日新聞「素粒子」の<死に神>報道というくだり。
この記事については、当ブログでも取り上げたと思う。

2008年6月、朝日新聞は、死刑執行を繰り返す鳩山邦夫法務大臣についてこう記した。

永世死刑執行人 鳩山法相。「自信と責任」に胸を張り、2ヵ月間隔でゴーサインを出して新記録達成。またの名、死に神。

翌19日、鳩山法務大臣は記者会見の中で、すぐさま反論し、自分は「死に神」ではないし、そうした記述は「執行された方に対する侮辱だと思う」と激しく抗議した。

これを受けて、朝日新聞には1800件を超える苦情が押し寄せる。当初、「とくにコメントはありません」としていた朝日新聞だったが、あまりの反発の多さに弁解に追われることになる。

鳩山法相の件で千件超の抗議をいただく。「法相は職務を全うしているだけ」「死に神とはふざけすぎ」との内容でした。
   ×   ×   ×
法相のご苦労や、被害者遺族の思いは十分認識しています。それでも、死刑執行の多さをチクリと刺したつもりです。
   ×   ×   ×
風刺コラムはつくづく難しいと思う。法相らを中傷する意図はまったくありません。表現の方法や技量をもっと磨かねば。

(夕刊「素粒子」/2008年6月21日付。)

果たしてこれが「訂正」といえるだろうか。謝罪の言葉は一切なく、「風刺コラムはつくづく難しい」と他人事のような感想を述べているだけに過ぎない。(中略)なにより問題なのは、これだけの騒動が起きてもなお、自らは安全な「匿名」の世界に逃げ込んだままで、一切正体を明かさないこの記者、及び朝日新聞の姿勢である。

上杉さんはこの後、匿名のブログに関しても批判の矛先を向けている。
私はこのブログを匿名でやらせてもらっているから、上杉さんに言わせれば、私も卑怯者なのかもしれない。
けれど、まあ、朝日新聞のコラムと泥酔しながら書いているブログを一緒にされてもなぁと思う。

匿名であろうとなかろうとブログには双方向性がある。
トラックバックやコメントで私の意見(泥酔していたとしても)に対する意見があれば、それは受け止めざるを得ない。
そのやりとりは(やりとりがないことも含めて)、すべてログとして残り、閲覧が可能なわけだから、朝日新聞よりもずっと責任ある立場にあるのではないかなと思う。
市井の人間である私がここで素性を明らかにする意味を私はあまり感じない。「明らかにしろ」と言う人がいるのなら、その人にだけ明らかにしても全然構わない。相手が怒っているのなら、いきなり謝るだけだから。

いやいや、ここで話がしたいのはそんなことではない。
さてさて、何を話したかったのか。酔いが回ってしまったらしい。

ジャーナリスティックなものではないけれど、かつて私も雑誌の世界に身を置いていたことがある。
上杉さんの著書は得心しながら読ませていただいた。
メディアがメディアとして機能してこなかったから、今の情けないこの国の現状があるという思いは一緒だと思う。

官僚組織という既得権でガチガチに固められた仕組みを壊さない限り、日本は次のフェーズに進めない。
それはマスコミも指摘しているし、みんながそう感じていることだ。

新聞、テレビは「記者クラブ」を解体しなければならない。
それは「記者クラブ」が既得権になっているからだ。

その通りだと思う。
それができれば維新につながると思う。

少なくとも無責任なことを書き飛ばして、訂正もしないメディアはなくなるだろう。
それはとても大事なことだと思う。

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2006年6月27日 (火)

明日の記憶

「明日の記憶」を読んだ。

話は、広告代理店に勤める50代の営業部長が会議の席上で、外国人の俳優の名前を思い出せないエピソードから始まる。

同じような年頃であれば、よくあることだ。珍しいことではない。
少しばかり頭をもたげる不安を「年を取った」という言葉で蓋をする。

酒の席で、映画を見てきた友人が、原作の中の医師の問診を再現した。
映画の中の問診は忘れてしまったらしい。

「まず、お歳を聞かせてください」
「ここはどこですか」
「次の三つの言葉を覚えてください。いいですか。あさがお、飛行機、いぬ」
「知っている野菜の名前をできるだけ挙げてください」
「100引く7は。そこからまた7を引くと?」
「今日は何曜日ですか」
「今日は何月何日ですか」
「これから私が言う数字を逆から言ってみてください。2、7、4。8、3、5、9」
「では、さっきの言葉を思い出して言ってみてください」

主人公は曜日のところでつかえた。
数字を逆に言えなかった。
三つの言葉はひとつも言えなかった。

酒の席にいた友人たちは100引く7でつかえた。酒のせいもあったかもしれない。
三つの言葉は私も含めて4人中4人が言えなかった。

「おいおい、我々も相当なもんだぜ」とみんな笑った。

数日後、仕事の用事でかけた電話のついでに言ってみた。
「ところで、オレ、あれ読んだ」
「実はオレも読んだ」
「映画、観た?」
「観た」
「オレは観てない。どうだった?」

映画は夫婦の愛情を主軸にすることで、興行的成功を狙った。どうやらそれは成功していたようだ。しかし、原作はあっさりしすぎるほど淡々としかし切実に記憶を失っていく主人公の姿を描いていく。

「映画では泣いた。本では泣けなかったけど、身につまされた。想像力を要求する分、活字のほうが残酷だね」

原作のエンディングにはやや救いがある。しかし、それは物語の必然として筆者が意図してそうしたものであって、アルツハイマー患者と接したことのある私には、現実はそう甘くないことは分かっている。患者本人はともかくそれは悲劇でしかない。

患者の視点から、アルツハイマーを描いた点で「明日の記憶」は新しいし、刺激的だ。しかし、やはり、悲劇は原作のエンディングのその後からはじまるのだということも忘れてはならない。

映画はまだ観ていないけれども、漠然と亡くなった今村昌平さんが撮ったら、全然違うものになったのだろうなと思う。

ところで、さっきの三つの言葉。あなた言えますか?

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2006年4月30日 (日)

五分後の世界 村上龍

氏の処女作「限りなく透明に近いブルー」を読んだのは、東京に出たばかりのころだった。

第一志望の大学にこだわって、滑り止めで入った大学を蹴飛ばしたことで、親父と喧嘩をして、もう世話にならないと啖呵を切って上京してみたものの、バイトに明け暮れる毎日の中に埋没していたころだ。

バイト先と予備校の行き来に使っていた小田急線のつり革につかまって読んでいて、足元が危うくなるような気がした。電車を降り、下北沢のふらっと入ったバーでウィスキーを飲んだ。

「限りなく透明に近いブルー」は、男の子なら誰でも心の中に飼っている獰猛な野獣の前に差し出された肉片だった。無自覚に日々を過ごしていた私に自覚を迫り、なにものかに駆り立てるような、粟立つ感覚があった。それを鎮めるためには、強いアルコールが必要だった。

「海の向こうで戦争が始まる」も「コインロッカー・ベイビーズ」も読んだ。
「限りなく透明に近いブルー」との出会いが衝撃的だっただけに、村上龍は常に気になる小説家だった。
しかし、それから、あまり読まなくなった。
「ラッフルズホテル」を読んで、たぶんもう村上龍を読むことはないだろうと思った。

「あの金で何が買えたか」、「13歳のハローワーク」は、職業的な興味で手に取った。
着想はいいなぁと思った。村上龍はそういうことで食っていく人になったのだと少し安心した。

友人に薦められて、しばらくぶりに「半島を出よ」を読んだ。

ムラカミワールドだなと思ったけれど、私は何も刺激を受けなかった。ついていけないとさえ思った。

「限りなく透明に近いブルー」は、群像新人賞を受賞し、芥川龍之介賞を受賞した。当時の選考会はもめにもめて、丹羽文雄、井上靖、吉行淳之介、中村光夫が支持、永井龍男、瀧井孝作が受賞に猛反対した。
池田満寿夫さんの「エーゲ海に捧ぐ」も芥川賞選考会で評価の分かれる作品だった。
当時、私は「エーゲ海に捧ぐ」、「限りなく透明に近いブルー」を否定する選者を、時代の変化を受け入れることの出来ない俗物とせせら笑っていた。

「半島を出よ」を読んで、変わらないのはムラカミで、私が変わったのだとなぜかサバサバと受け入れた。

「五分後の世界」を手に取ったのは、帯に「半島を出よの原点」とか書いてあったからだ。
サバサバと受け入れたわりに、やっぱりどこかで、変わらないムラカミワールドに刺激を受けていたのかもしれない。

けど、やっぱりだめだった。

パラレルワールドとして、連合国に降伏しない日本があったという着想は良いと思った。それだけだった。
ムラカミワールドは、当時も今もそれほど遠い存在ではないと感じることは出来る。しかし、そっちとこっちを薄皮一枚が隔てている。

「限りなく透明に近いブルー」の翌年、私は結局、第一志望の大学に入ることが出来ず、学力的に落ち着くところに落ち着いた。その大学も数年で辞め、いくつかの仕事を転々とした後、ふるさとに帰り、20年になる。8年前に娘が生まれ、娘の成長に目を細めているオヤジが今の私である。

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2006年4月21日 (金)

経済ってそういうことだったのか会議

「経済ってそういうことだったのか会議」佐藤雅彦・竹中平蔵

初版は2000年4月。当時は、興味を持ったが、購入しなかった。最近、母親の書棚にあるのを見つけて読んだ。

(1)株式会社のはじまりは東インド会社(これは知っていた)、当時、ヨーロッパには、東インド会社はいくつもあった(これは知らなかった)。当時の株式会社は1プロジェクトで終わり(これも初耳)。つまり、船を仕立てて、例えば香辛料を仕入れに行く、その資金を何人かが負担する。無事香辛料を仕入れて船が帰ってくれば、それを売った利益を出資比率に応じてシェアする。船が帰って来れなければ、出資した資金は無駄になる。
そのうち、都度出資を募るのも面倒なので、継続的な事業にしようという話になる。継続的な事業になると、途中でやーめたという人が出る。なので、権利を売買する仕組みが生まれる。なるほどなぁ。

(2)預金金利が3%のとき、株式配当の利回りが5%で、安全な投資なら、資金は株式に流れる。ただ、株式に資金が回ると、株価が上がる。仮に株価が2倍になれば、利回りは2.5%になるから、資金は預金に回る。預金に回ると株価が下がるから、株式の利回りは上がってくる。そうやって、マーケットはバランスが取れるようになっている。なるほどなぁ。

(3)民主主義は税金の問題からはじまった。例えば、王様のこづかいと国家財政は区別がない。すると王様は必ず無駄遣いをする。赤字になる、税金を上げるということになる。そんなことが繰り返されるとたまらないから、税金の使いみちについては、払う側にも意見をさせろということになっていく。王様が何を根拠に税を集めるか。安全保障。なるほどなぁ。

(4)税が社会に与える影響=チャウシェスクの子供たち。国力は人口だと信じたルーマニアの独裁者・チャウシェスク大統領は、たくさん子供を産んだ人は無税として、逆に奨励金を出した。子供が増えた。政権が変わり、この制度がなくなると、子供を育てられない親が子供を捨てた。佐藤雅彦さんがブカレストで目撃した姉弟の話は泣ける。中国の一人っ子政策によって、戸籍に載せられない子供が生まれた。戸籍に載らない子供は教育が受けられないという悲劇についても考えさせられた。

(5)ジレットと言えば、カミソリを売っている地味な会社というイメージが私にあるけれど、カミソリは30%弱しかない。時価総額はGEを抜いている。以前は百円ライターのビックを持っていたけれど、ビックのライターで煙草に火をつけているのが増えそうもないから手放した。どうしてカミソリを手放さないかというと、ジレットの筆頭株主・ウォーレン・バフェットは「寝る前に今この瞬間も人々の髭が伸びていると想像すると、安眠できる」と言っているのだそうだ。なるほどなぁ。

(6)資生堂が10とするとカネボウは1くらいしか売上がなかった。けれども資生堂が春のキャンペーンで口紅をやると、カネボウも口紅をやる。秋に資生堂がアイシャドウをやるとカネボウもアイシャドウをやる。そうすると一般の人には、資生堂とカネボウが10対10の会社に見えてくる。そのうち売上も10対3とか4になってくる。なるほどなぁ。

という具合になるほどなぁと思ったことがたくさんあった。
私は経済というものを学んだことはないけれど、いくつかの原理原則を知ると、なんだか全体が分かったような気分になった。

この本を今さら読んでみようと思ったのは、小泉改革の旗振り役をしている竹中平蔵さんという人がどんなことを考えているのか知りたいと思ったことがある。

この件に関して、読了して思ったのは、やはり竹中さんは、小泉人気を背景に壮大なシミュレーションをやっているのだということだ。
竹中さんは参議院議員になったけれど、未だに議員というより学者だ。そういう議員がいてもいいと思うけれど、そういう人が政策を左右するようなポジションにいるということは、歓迎すべきことではないように思う。それは占い師が政策を左右するポジションにいるようなものだと思う。

読み込み不足だったら謝るけれど、この本の中で、佐藤雅彦さんはチャウシェスクの子供たちの話をした。臨場感があった。感情を動かされた。だけど、竹中平蔵さんの話は寓話的で、臨場感がない。腑に落ちるけど、感情が動かない。佐藤さんがCMプランナーとして相手にしていたのは大衆だったけど、竹中さんが相手をしているのは無機質なもののように思えた。それは竹中さんが選挙民を持たない(地元を持たない)比例代表の参議院議員であることと無縁ではないと思う。
アメリカに住民票を移して徴税を免れているという疑惑をはじめ、説明できない(していない)いくつかの問題を抱えていることも国会議員としてどうかと思う。

人は遺伝子の乗り物だ。繁殖するために私があるとすれば、男である私が浮気をするのは当然だ。例えば、極端にすると理解しやすいと思うが、地球上に100人しか人間を残せないとしたら、女1に対して、男が99なら、子供は年に1しか生まれない。一方、女99に対して、男1なら、年に99人の子供が生まれる可能性がある。浮気の言い訳にこんな話をする男はいないだろう。いたとしたら馬鹿だ。こんな話に納得する女はいない。

原理原則を勉強すると、真理が分かったような気になる。けれどもそれは勘違いというものだ。

小泉改革のもと、自殺する中高年が増え、日本の将来を担う若者たちは職業に就けないでいる。
労働市場のサプライサイドの変革が必要で、「積極的労働市場政策」とかいうものが必要とか言うけれど、彼らが失っているのは、生きていくために最も必要な「希望」だってことすら、竹中さんには分かっていないのではないかと思う。

さて、この本だが、冒頭の「牛乳瓶のフタ」の経済学は面白かった。うまいなぁと思った。本としてすごく良く出来ている。一読をお薦めしたい。

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2006年4月 8日 (土)

小川竜生「黄金の魂」

知り合いから薦められて読みました。映画化の話が進んでいるそうです。

走ることが大好きな主人公は交通事故で右足を失ってしまう。右足を奪われたことでことで心を閉ざしていた主人公は、同級生に励まされて立ち直り、やがて結婚。娘を授かる。しばらく平穏な日々が続いたが、阪神淡路大震災が妻を奪い、娘の言葉を奪ってしまう。娘のために、妻のために、自分のために、主人公は義足でトライアスロンにチャレンジするというお話。

ストレートに出来すぎたお話というのは、ひねくれた私の好みではないのだけれど、熱を持って一気に書き上げた感のあるこの作品は、荒々しく私の心を揺さぶる力を持っていた。

小説を読むときは、一定の距離を置くのだけれど、この作品に関しては、距離感が曖昧になってしまった。仕事を終え、深夜帰宅してから読み始め、早朝読了した作品。

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