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2008年12月 9日 (火)

12月8日

LENNON LEGENDを観ながらビールを飲む。

ジョン・レノンの訃報を聞いたのは、三鷹市の病院だった。
明け方、バイト仲間と遊んだ帰り、仲間の運転するステーションワゴンが道路脇の電柱に激突して大破した。
エンジンまで潰れる大事故だったにも関わらず、運転していた仲間は奇跡的に軽症。
後部座席に乗っていた私も大した怪我はなかった。
それでも衝突のショックでぐったりしていた私は救急車に乗せられ、最寄の救急病院に担ぎ込まれた。
ストレッチャーに乗せられ、待合室を横切ったとき、待合室のテレビがジョン・レノンの訃報を報じていた。
「ちょっと・・・待って」
ストレッチャーを押す看護士に声をかけて、起き上がり、ストレッチャーを降りて、テレビに見入った。
しばらくして、看護士に促されて、またストレッチャーに横たわった。
ジョンが死んだことは確からしい。
「ジョンが死んだ。ジョンが死んだ」頭の中をそのことが駆け巡り、支配していたけれども、それがどういうことなのかよく分からないような気分だった。
病院でどのような検査、診察を受け、どのようにしてアパートに戻ったのか、完全に記憶が欠落している。

午後10時50分。スタジオワークを終えたジョンとヨーコはリムジンでハウスダコタに戻ってきた。
「ミスターレノン?」マーク・チャップマンは暗闇から声をかけ、振り向いたジョンに5発の銃弾を浴びせた。
セントラルパークの警察署から駆けつけた警察官二人がジョンをパトカーの後部座席に乗せ、ルーズベルト病院に担ぎ込んだ。
ジョンが亡くなったのは、午後11時過ぎ。失血性ショックだった。
このとき、病院のスピーカーから「All My Loving」が流れていたという。

ジョン・レノンが亡くなったのは、41歳。
バカボンのパパと同じ年齢である。
私自身は、その年齢を過ぎて、もう数年が経った。
「(バンドが解散しても地球の終わりじゃない)思い出したければ、レコードがある」
ジョンはそう言った。
けれども・・・あれから28年。未だにジョンを失った喪失感は消えない。

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2008年12月 2日 (火)

がっかりだよ。

与党は総選挙を少しでも有利にするために、首相を取り替えた。
人気者を首相にして、支持率が上がったところで、解散~総選挙という筋書きだったのだけれども、当の人気者は、すっかりその気になって、この立場を手放すのが惜しくなった。
そこに未曾有(流行語になるかも)の金融危機が勃発。「政局よりも政策」の口実ができた。

せっ かく、人気はないけれど、自分を客観的に見ることのできる、私たちとは違う元首相が、「党のために」政権を投げ出して、次の人気者に党の行く末を託したの だけれども、漢字も雰囲気も読めないオレ様は、政策でもっと支持率が上げられると勝手に確信して、解散を先送りした。

自信をたっぷりに打ち出した政策は、評判が良くなかった。いろいろと言い方を変えてみたけれども、やっぱりウケが良くないので、オレ様は機嫌が悪くなった。
貧 乏している下々にこづかいを施してやろうというのに、生意気にもそんなのいらないっていう奴もいるし、マスコミはこづかいの配り方についてつべこべ言う。 もともと面倒くさいことは大嫌いなので、金は出すから、あとは地方でよきに計らえということにした。今さら「やっぱりやめた」と言うわけにもいかないじゃ ないか。

最初は、「何よりもスピード」って言ってたくせに、政策を実行する根拠となる法案は先送りするのだという。期限切れで法案が成立 しないと政権が行き詰ってしまうからというのがその理由らしい。今の体制で政策が速やかに実行することはできないだろう。さっさと解散して民意を反映した 新しい体制を作るべきだと思う。

人気があるというだけで選挙の顔として選ばれたオレ様は、人気がなくなると使い道がない。総選挙の前にもう一度総裁選があるのではないかとさえ言われるほど、求心力がなくなってしまった。もう一度総裁選があるとすれば、今度は小池百合子か。私は好かんな。

民主党だって褒められたものではない。一日でも早く解散・総選挙という1点で動いている。それがあまりにも露骨なので、民意が離れつつある。そんなことに気づいている気配は彼らにはない。

麻生さんはもう少しできる男だと思っていたのだがなぁ・・・。

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